鬼籍(奇跡)の人・2
2004/6/5


中村 正則(なかむら まさのり)(〜1997)

今回はテクニックの専門用語が多く出てきます。
それはこの中村正則氏がまさにそういう人だったといえるからです。

テクニックの人――それが、いまは亡き中村正則さんを呼ぶのにふさわしいでしょう。

最初に会ったのがいつか思い出せません。しかし、私が本格的にマジックをやり始めた初期にとって、とても大事な人でした。

彼はテンヨーのディーラーだったのです。

思い出すのはいつも人なつっこい笑顔。
そして糊の利いたワイシャツ。仕立てのいいスーツ。整った髪型。
小柄でちょっとふくよかで、実に格好いいプロディーラーでした。
もちろん、仕事場が老舗の東京日本橋三越というところがそうさせたと言える部分があるでしょう。

私は1971年大学に入って本格的にマジックをやりはじめました。
そして力書房に出入りをしつつ、バイトでよく日本橋三越のテンヨーのショップでディーラーをもしていました。
バイトがなくても、家に近いということもあって、そこに頻繁に顔をだしていていろいろ見せてもらっていたのです。

中村さんの話しをする前に、ちょっとだけ私とマジックとの関わりをお話してみましょう。
その三越のショップには小学生の頃からよくいっていました。
つまり、昭和35年の頃にはもうテンヨーショップがあったというわけです。
当時はディーラーとして誰が立っていたかは思い出せませんが、父と一緒にたまにそのショップにいっていたのです。
私の中でのマジックの歴史の最初の経験は、だいたい9歳くらいの頃でしょうか、父が趣味でやっていたのでその頃の記憶が最初マジックとの出会いでしょう。小学3年生のお楽しみ会で「シンブル」のマジックをやったのを憶えています。

やがて父も趣味としてのマジックをしなくなり自然と私も遠のいていったのですが、大学に入り、サークル選びで目にとまったのがマジックサークルだったのです。

さて、私がその二度目にマジックに関わった頃――つまり大学のサークル時代での早い時期に、彼がいたことは私にとっては有意義なことでした。

それは、トリック以外にもフラリッシュという曲芸のような分野があるんだということを思い知らされたことでした。
本に書いてあるテクニックの動く見本、今でいうビデオやDVD教本と同じことだったのです。

そしてマジックはトリックだけではなく、テクニックも駆使すれば、想像できないくらいの魔法になるということなのでした。
また見栄えのするカットやシャッフルの技術は、マジックの色づけには必要不可欠なものだと感じたのです。

そしてそのテクニックの一部を私に教えてくれましたが、もちろん完璧に出来たわけではありません。

はじめてショップに行った時、いきなりセカンドディールを見せられました。その時、まったく同じカードが十数枚あるのかと思ったくらいでした。
いろんなマニアの方やプロの人からマジックは見せてもらってはいましたが、テクニックのみの人に出会ったのは初めてでした。いわゆるマジシャンではなく曲芸師に近いものでした。

そのテクニックはすさまじく、まったく自然な中で行われるのです。手は大きくありませんが、筋張ってなく、実にふくよかな手でした。

さらにパーフェクト・シャッフルはまさに完全でした。
その技術は、新しいカードの封を切ったあとでそれをすることにより、好きなカードをコントロールできるのです。
(新しいカードはAからKまで順番に並んでますからね)

またコインテクニックもすごかった。
コインも4枚、指の間に順番に拡げていき、最後は指先に平らに乗せるという技をやっていました。しばらくすると、5枚のコインでそれができるようになっていたのです。

とにかく、まずセカンドディールに驚き、続いてパーフェクトシャッフル、ワンハンドバーム、パス、サイドスティール。すべて完璧だったのです!


当時の三越の担当の課長さんや主任さんともよく飲みにいっていました。彼は学歴がないけど、そのテクニックを誇りにして、そういう人達と対等に話せるという自信があったようです。

ある時、私が「卒論を書いてるよ」というと、「それ読みたいな」、というのでコピーを預けると(当時はワープロではなく汚い字の手書きです)、後日、しばらくして「オレでも理解できたよ。大学生はこんなもんなんだね」といいました。
それは彼の精一杯の意地だったのかもしれませんし、学歴がなくても大丈夫という確認だったのかもしれません。

話しはテクニックから離れます。

ある時、三越の売り場に二人で立っていると、目の前をすらりとしたきれいな女性が軽く会釈して通り過ぎていきました。
「中村さん、誰、誰、あのきれいな人…」
「あれ?…オレのかみさん」
「うっそー!」
「元モデルだよ」「えー、どうやって騙したの?」「こら!」
なんて会話をしつつ仕事をしていたものです。

またある時、よぼよぼの老人とそれに付き添っていた女性が目の前を通りました。

中村さんは「あ!!」声をあげ最敬礼。
「誰?」「天洋先生だよ」
「え、あの天洋…」私もあわてて最敬礼。二言三言私にも声をかけてくださいましたが、緊張していたのでしょうか残念ながらなんと言われたのかわかりません。
後に、付き添いのその女性は松旭斎椿(つばき)さんとわかりました。

また時々、故・片倉雄一さんも売り場に遊びにきてくれて、帰りには中村さんと一杯飲みにいったものです。もちろん、居酒屋でもカードを拡げて、ああだこうだとマジック話に花が咲いたものでした。
いまとなっては貴重な思い出になっています。

さてテクニックに話しをもどしましょう。
特に、うまくできない私に何度も教えてもらったのはワンハンドシャッフル。
それから大きく見えるワンハンド・ファンカード。写真参照。
ファンの中心部がさらに開いているでしょ?


また大事なことも教わりました。
とても身だしなみがよく、スーツもいいのを着ていたのでした。「この商売、清潔でなくちゃね」とよく言っていました。
その部分だけでも実に接客業のプロであったと思います。

ただし、お酒は好きでした。深酒でろれつの回らないこともしばしば。これが後に命とりになったといいます。
(私の周りには酒好きが多い)

そしてしばらくして、私もプロ・マジシャンになり段々売り場からは遠のいていったのです。

その何年か後、彼は大阪梅田の阪神百貨店のディーラーとなりました。個人的にレッスンもしていたようです。
また、日本テレビの「特報王国」で、コインロールをやりながら通勤する変な人ということで紹介されたことがありました。
このころが一番、彼の人生で輝いていたと生徒さんが話しています。

それからは彼に不運がつきまといます。

お酒で身体をこわし入院。さらに退院したあと、不景気でその売り場が縮小になり、職を失ってしまったのです。
それからは個人でマジック教室を開いたようですが、お酒とは縁が切れず、生徒も段々へっていってしまったようです。

プロとして売れ初めたそのころの私とはまったく逆の実に不幸な人生を歩んでいたのでした。そんなことは私自身の忙しさにかまけて、まったく知らなかったのです。
ああ、もっといろいろ教わっておけばよかった…残るのは後悔のみです。。。。

中村正則――ディーラーとしてそしてプロとして実にプライドを持った人だったと思うのです。

彼の最期は非業の死といっていいでしょう。
1997年8月29日、風呂場での転倒事故で亡くなる。。。。50歳。


当時、あまり演じる人のいなかったフラリッシュの部分に踏み込んで、一途にそれを習得していた彼はマジック界にあっては、あだ花だったのかもしれません。

あだ花――咲いても実を結ばない花――フラリッシュは派手であるにもかかわらずみんなが追い求めない長くつらいイバラの道。
でもそれに敢えて進んでいった中村さんは私の中では見事な花が咲き、そして今でも実となって生き続けています。


中村正則さん、その人生は、あなたのテクニックのようにパーフェクトではなかったかもしれません。でも、私にとっては、あなたと知り合えてよかったと思っています。そしていろいろ教えていただき本当に感謝していますよ。
私の中でのあなたはいつまでもパーフェクトな人です。
ありがとうございました。

マジちゃん氏の結婚式の時の中村正則さん。いい顔してます。1985年。




お礼:(中村氏の情報を青木氏、中村氏、マジちゃん氏からメールでいただきました。ありがとうございました。またマジちゃんのサイトの「わが師匠」とは中村正則さんのことです。ご一読を。またビデオをコピーしていただきありがとうございました。)