新・手品師の裏側6

NO:26 人間不信                   2003/6/7
落語に「芝浜」というのがあります。

最近思ったことなのですが、問題はオチなんです。
大金を拾ったのが夢でなくて、本当だと女房にいわれ、酒を飲むシーンです。
「予想を裏切ると衝撃がある」というマジックの演出の理論のひとつを応用すると、主人公が杯を口に持っていく寸前、飲まずに「…やめとこ、また夢になるといけねーや」という本来のサゲ(オチ)を変えたいと思ってしまうのです。
つまり杯を口に持っていき、観客が「お、サゲだぞ、拍手の用意だぞ、ほら一呼吸あって、飲むのやめるぞ!」と思った瞬間、一気にぐいと杯を空けるのです。
観客は「えー!飲んじゃうの」と驚き、ざわつきます。
そして落語家は間髪入れずに続けます。

「こりゃ、水じゃねえか!」

するとおかみさんが平然とそして愛情たっぷりに言う。
「そうよ、…また、夢になるといけないでしょ…」
(落語好きな管理者、どう?:筆者)
(くーーーーっ!まじでこりゃいいオチだあ!うーん、でも私には通用しないな…。だって口元にもってっただけでお酒か水か瞬時にわかるもん:管理者)
(いやいや、そういう問題じゃなくてさ…:筆者)

この手のアイデアは、専門家ではもうやっていることがありますね。マジックでも「お、こりゃあいいなあ」と思っても、既存のアイデアになっている場合が多い。
でも誰か演じていたら、ちょっと聞いてみたい。
さて、そんないい人間ばかりでてくるのが落語の世界ですが、実社会ではそうはいきません。
相手の本心を見抜くことがむずかしいからです。

曾野綾子さんの本によると「人間を性悪説にのっとってつきあいなさい」とありました。
(性悪説ってセックスは身体に悪いという説?:管理者)
(首しめたろか?:筆者)
確かに性悪説をとっていくと、疑いが杞憂に終わることが多く、自分のそんな性格に嫌気がさしても、ともかくいい人に出会えてよかったと思う方が多いという。
つまり性悪説は深い「自省」と「幸福」を得られるというのです。
人を判断するのは確かに難しい。やくざみたいな強面の人が意外といい人だったり、優しい人が極悪人だったりするもんね。
(あんたも極悪人だったりして。ぷぷぷ:管理者)
(あなたほどじゃあ…:筆者)

でもその法則が完璧なものなら人生楽ですが、そうはいきません。
やくざみたいな人が本当にやくざだったり、優しい人が本当に優しかったり、ボーイッシュなイイ女だなあと思ったら本当にボーイだったり、傲慢な女が本当に傲慢だとすると、もうわけがわからなくなります。
(最後の部分は私のことか??:管理者)
(……:筆者)

そういえば私の母も他人を昔から信じない方でした。
それは母が8才の時、その父(享年38才:噂によると酒飲みだったらしい。オレも気をつけよう)を失ってから母子二人で生きてきたから、人をあまり信じなかったようだし、親戚や近所の人々にもあまり心を許さなかったようです。
私も子供の頃から母に「あんまり人を信じるんじゃないよ」とよくいわれたことが多かったような気がします。
それは母が貧しい戦前戦後を生き抜いてきたからだろうし、商売をしているといろんな詐欺にもあったからだろうと思う。
(血は争えないね、あなたも滅多に人を信じないしね。右から話しかけられたら左を注意するくらいだもんね:筆者)

まだ私が大学生の頃、夜、家にいるとシャッターをたたく音。2階からのぞくと「おーい植木、オレだよ○○だよ、高校の」
確かに見た顔だけどそれほど親しくなかった男です。その頃の高校といったらAからGクラスまであって同学年が300人くらいいたわけですから。
家に入れると「財布を駅ですられたらしいから、1万くらい貸してくれ」とのこと。
その声を聞いて母が奥からでてきた。
母は性悪説にのっとって生きてきたから、そいつに向かって「あんた、うちに初めて来たね」「どこで無くしたの?」「どこに住んでいるの?」「家族は?」「兄弟は?」「どこいくの?」とか矢継ぎ早にしかもにこにこしながら質問ぜめ。
最後に「じゃあ電車賃くらい貸してあげるから、家に帰った方がいいよ」といくらか渡しました。
彼を帰すと私に「だめだね、あれは。眼を見ればわかるよ。まともな人じゃないよ」
そののちも彼はお金を返しにきませんでした。
( 取りに行け。今からでもいいからいけ。私も一緒に行ってやる。ふてぇやろーだ:管理者)
(あなたは女性でしょ?:筆者)

例えば深夜のエレベーターに「明らかにやくざ」とわかる人と乗り合わせた時と「普通の青年風」が乗り合わせた時と、この場合どっちが安心するかと言えば、やくざでしょう。
なぜなら「やくざが乗ってる」と認識しておけば「何かされるかもしれない」とか「脅されかもしれない」と構えることができ、無事に目的の階につけばもうけものという気がします。
それに実際、やくざは無駄で無意味な犯罪を犯さない確率が高いです。
一方「普通の青年風」の場合、無防備無警戒に陥りやすい。
もしその彼が殺人好きな変質者だったら、ダメージは大きいでしょ?
「人を信じるな」
嫌な言葉だけど、世の中それが本質かもしれませんね。
これはマジシャンがお客さんを選ぶ時にも同様です。

注意していないと、つまり<性悪説>にのっとっていないと、予想外の行動をとるかもしれないのです。
舞台の上にあげたらマジックの箱を勝手にあけたり、「〜してください」と頼んでも、いうことを聞かない客かもしれません。
でもこういうことを書くと、私のステージを見た人が「あの人、私たち観客を性悪説で見てるらしいわよ」「いやらしいわね!」「しかもスケベらしいわよ」という根も葉もない先入観を与えかねません。
(根も葉もあるじゃん。私が保証する:管理者)
(名前が植木ですから、なんちって:筆者)

実際はそんなことありませんよ。
(もう遅いつーの:管理者)

でも人間は平気で嘘をつける人がいっぱいいるから、恐ろしい。
私なんざあ、何度女性の甘言に騙されたことか。
(いい加減に学べよ:管理者)
(はい:筆者)

人を見分けるのはむずかしい。
だからこそ、確かに性悪説にのっとって生きていったほうが楽かもしれません。
でも、そんな私が今もっとも人に疑われやすい職業をしているのだから皮肉なものです。
(私は実際は生まれながらの善い人です。あはは:筆者)
(みなさーん、うそですよー。気をつけてくださーい。いろんな女性が騙されてますよ。口がうまいですよ:管理者)
(口がうまいって、キスがうまいということ?:筆者)
(ほらこれだわ、そんなにしたいなら私がしてあげようか?:管理者)
(……うーん、やめとくよ、また夢になるといけねえ…:筆者)

写真は、あまたの電線から発するスカラー電磁波にも涼しい顔の大船観音。電車から撮りました。



NO:27 趣味の人々…                2003/9/15
アマチュアの会とか趣味の会というのはむずかしいものです。

技術が向上していくのには差があり、人それぞれ目的も違うから会の方針を会長なりがしっかり把握しておかないと、会がうまくいかなくなるようです。

私は料理教室には行ったことがありませんが、その手の教室と呼ばれるところにはカリキュラムがあるから混乱はないでしょう。
「先生! きょうはチャーハンを習うことになってるけど、あたしぃ〜、ラーメンのがいいなあ。彼があ、ラーメン好きだしい、今夜来ることになって、あたしの手料理食べたいっていうからああ、だからラーメンにしましょうよ」なんてことにはならないのです。

(私が先生なら「やかましいわい! カップラーメンをどんぶりに移して食わせ!」といいます:管理者)
(うん、それはいえてる…:筆者)

絵画教室だって「オレよ〜、早く裸婦描きたいんだよね。もうリンゴとかピーチはイイからさあ…本物のピーチのがさあ。。。」と情熱をこめて訴える男子生徒はいませんし「私もバナナじゃなくて…うふっ…なんていうかさあ、、、」と顔を赤らめていう女子生徒もいません。
(バナナじゃなくてちょっと反った●●●●フルト??:管理者)
(こらこらこら!あのね、このサイトは未成年も見てるんだよ!まったく!:筆者)
(あんら、ボナのお気に入りの女子高生マジシャンも見てるのかしら…:管理者)
(やかましい:筆者)

マジック教室も先生がいてカリキュラムが決まっているなら混乱はおきないでしょう。

問題は有志があつまっての趣味のマジックの会です。
そもそもこの手の、いわゆる同好会系のものの発祥は誰かが次のようなことを考えてしまうという安易な過ちから始まるのです。

それはついうっかり恋に落ちてしまう、ただそばにいただけの男女の仲に似ています。
(私にはその経験はありませんが:筆者)
(あ、そう。恋におちるだけでもイイじゃん……:管理者)

それは自分の趣味が一人でやるよりみんなでやった方が楽しいと思い違いをするところから始まるのです。
それは初心者の時期を過ぎて少しはうまくなり、余裕ができた証拠ともいえるでしょう。
いろんなアマチュアの会に行き、自分の位置がどのくらいかが判断できた証拠でもあるのです。
(いるいる、ちょっとできると教えたがる人や優越感にひたるひと。マジックに限らずにね:管理者)

一人でやっているよりもっと人が集まれば、発表会や、やや強引ですらあるどこかへの慰問もできるし、いままで趣味として家庭をないがしろにしてきて、みんなから白い目で見られていたから、その手の会を作れば、世のため人のためになると認識され、女房からは多少なりとも理解され、夕飯に一品多くおかずがつくかもしれないという、ちょっとなさけなく、そしてあさましい考えを思いつく人が、始めるようです――ふー長いね、この文章。

大体この手の会は、いいだしっぺが責任者になります。さてなんとか会を発足させたとしましょう、問題はそれに集まってくる人たちです。

例えばあなたが、新聞のサークル案内でマジックの会が会員を募集しているのをみる。あるいは町内会の掲示板を見て、趣味のないあなたは「なるほど、ちょっとやってみるかな。会社や飲み屋でもてるかもなへへへ」とお気軽な気持ちで入ったら大間違い!!
楽しみで入ってみたら最初は人数確保で、いろいろ親切に教えてくれるでしょう。他のちょっと先輩も、女衒――じゃなかった助言してくれるでしょう。

しかし、なんど教えても不器用なあなたはうまくできない、その内いらついた会長や、先輩に「遊びでやってるんじゃないんだぞ!」と揶揄され、失敗したら「ちゃんと練習してこい!」とどなられる。

あれ?ちょっと待ってよ。趣味ってそんな激しいものなの?と困惑するあなた。

しかしご安心あれ。
このとまどいと恥かきは逆のケースもありえるのです。

たまに外の講師を呼ぶことがあるのです。
それは会長が自分の地位を昆布――じゃなかった鼓舞するためにする場合があるのです。これが命とりと知らずに。
さてその講師は、自分のノウハウを教えるでしょう。するとあなたは気が付く。
あれ?会長の言ってるのと違うじゃん、と。
その場合の会長の尊厳は何処に行くんでしょう?
(どこにいっちゃうの?:管理者)
(それはあとで:筆者)

「誰がそんなハンカチのしまい方教えたの?」と講師はあなたに聞くでしょう。するとあなたは「会長です」と答えつつ指さす先にいる会長は、まるで夕飯の魚をつまみぐいしたのがばれてしまったかのような猫のように、目を合わせずよそ見をしているのを講師がみる。
そして勘のいい講師は「…ああ、そうそうそういうのもあったけど、ま、どっちでもいいよ…」とフォローしてくれれば運がいい。

勘の鈍い講師は「とにかく…」とあなたに向き直って「だめだつーってんだろ。そんなハンカチのしまい方じゃあ、えーやる気あんのかよ。忙しい時間おれだって来てるんだよ、真剣にやろうよ、遊びじゃないんだから…」と言う。

(勘の鈍い講師は手品師向いてないと思うよ…。それはそれで問題だとおもう:管理者)
(なるほど、それは一理ある。たまにはいいこと言う:筆者)
(たまにかい!:管理者)

それを小耳にはさんだ会長は、混乱して「え、遊びじゃないの?」と、自らつぶやく。そして真っ白になった頭の会長の威厳は、もはや♪虹の彼方に♪向かわざるをえないのです。
(おう!二時の彼方に行っちゃうんだ。何時に帰ってくる?:管理者)
(うわー、べたなシャレ!!:筆者)

そうなると会はばらばらになり解散の一途に向かうのです。

しかしながら、この文書を自分の経験から書いているわけではありません。想像で書いています。実際はそうではないかもしれません。とはいえ、的ははずしているとも思えないのです。そういう可能性があるからです。

ですから長年続いてるマジックの会を私はいろいろ知っていますが、だからこそ、存続しているということ自体奇跡であり、尊敬できるのです。
アマチュアマジックの会に幸あれ。。。。。

さて、かたや私の参加しているジャズバンドはどうでしょう。
その会の目的は「楽しくジャズをやりましょう」というのが前提にあるから、うまくなって物足りなくなったら他のもっとうまいバンドにいけばいいわけです。
仲間でもそこは棲み分けしていて、他のすごいうまいバンドに所属していても、今いる私達のバンドにも参加しているわけです。
そこでは純粋にジャズを楽しむだけと割り切っているし、メンバーもそう思っているからうまくいっているのです。

とにかく趣味の会で大事なことは、会の目的がなんであれ、人間関係に気を使って、その趣味を楽しむべきでしょうね。
そして肩の力を抜いて、楽しめるかが問題でしょう。会にいくのが苦痛になっては意味がないのです。趣味の会なのですから…。

でもメンバーはあきらかに勘違いしてるなあ。
私はコミックバンドを目指してるんだけどあ、みんなわかってないなあ。。。。。
おーい、みんな! クレージーキャッツ、ドリフ、そして玉川カルテットに続け!
(そこまでいければ、天才だー:管理者)
遊びでやってるんじゃないんだぞ!!
(おめーが、遊んでんだよ!:管理者)
(あ、そうか:筆者)
(でも、遊びでギターコードやウクレレ記憶術をだしたんだからえらいよ。褒めてるんだよ、マジで。:管理者)
(え、褒めてる…、な、何か、ある…:筆者)
(うふふふ、楽しみにしてな:管理者)

写真は韮山演奏旅行の出番前の楽屋、まじめにやっているのはボナとおぼんさんだという証拠写真。(PHOTO BY KATOH)



NO:28 優しさと思いやり                2004/4/1
いま流行りの<女子十二学坊>ではなく<男子十二学生帽>つーのはどうだろ。

(帽子が12個あるだけかい。臭そうだな。そんなことより、このコーナー終わったと思ったよ:管理者)
(失礼しました:筆者)

女性にこういう質問をしてみよう。
「あなたはどんなタイプの男性が好きですか?」
すると、こう返事がよく返ってくる。
「優しい人が好きです」

なーんてことを言うが、私は「優しい男」より「思いやりのある男 」と言われる方がいいね。

(私は違うわねぇ。好きなタイプといえば、と〜ってもお金持ちで、二人きりの時にオオカミに変身したり、ベッドで馬に変身したりする人がいいな〜♪:管理者)
(うーん? ベッドで馬という意味がよくわかりませんが…ハルウララだったりして:筆者)
 (負けっぱなしかい!!:管理者)

なぜかということを説明してみましょう。
優しいとはなんぞや、つーわけで広辞苑でひいてみると、
「優美で風情がある、すなおである、おとなしい、情けぶかい」

こうしてみると実にきれいないい感じがしますが、裏を返せば軟弱 なイメージがします。
それに消極的でもあります。

さて「思いやり」を調べてみると「おもいやる、気の付く、思慮深い、人の身について思う、同情」
ほーれみなさい。印象が積極的であり、賢そうな印象でしょ?

(…同情はいやだわー。この年になると同情って言葉になぜか敏感になるのよね。結婚してないからかしら?:管理者)
(ノーコメント:筆者)

男としては優しさより断じて思いやりなのです。
ハードボイルドの世界では「男はタフで優しく」なければならないらしいですが、それはそれで冷たくていいわけで、いちいち犯人や敵に思いやりをもっちゃあ仕事にならないからです。

そうしてみると、女性は勘違いしているのかもしれませんね。
例えば、部屋に入る時、ドアを開けて女性を先にいかせると「あら 、優しいのね」と思うわけですが、そんなのは男にとっちゃあ当 たり前だし、それで自分のジェントルマンさを出しているつもりなら、大笑い海水浴場なのです。
(大洗海水浴場というところが水戸のそばにある。かなり使い古された定番ギャグです:筆者)

もっともジェントルマンの第一の意味は「高貴な生まれ」という意味です。
ま、その点、私は生まれた時からジェントルマンだったというわけですけどね。
(燕尾服きて蝶タイしてうまれたんかい:管理者)

それはさておき例えば狭い道でハイヒールを履いた女性が、水たまりを避けながらよたよた歩いているのを見たとしましょう。優しい男は「手を貸してあげましょう」くらいのことをいって彼女の片手を持ってあげるのが精一杯でしょう。

ところが私のように思いやりのある男は違います。スーっと音もなく近寄って、いきなり後ろから持ち上げ、抱きかかえ、ま、映像イメージ的にはスーパーマンが女性を両手でスクープアップして、あるいはデビッド・カッパーフィールドが演じる観客と一緒のフライングのごとく、あっという間にその道を通り抜けていることでしょう。彼女は、高価な(たぶん)ハイヒールも汚さず、肉体も疲労せずに目的の道を通り過ぎることができるのです。
これを思いやりと言わずになんと言いましょう。
(えーと、それは痴漢です。犯罪ですね。小さな子どもだったら誘拐というのでしょうね:管理者)

つまり「思いやり」は、明らかに「相手のため」なのです。
反面「優しさ」は「自分のため」といってもいいでしょう。
先の例では、優しい男は自分の靴や服が汚れないために女性の手を逆に借りて自分がうまく道を行こうとしたともとれるのです。

あるいはこういう例はどうでしょう?

例えばデートの時、あとから来た彼女のコートを脱がすのに手を貸す。そして隣に座ろうとした彼女のイスを引いてあげる。もちろんずっこけさすためではないですよ。
(当たり前だろが! あんたは小学生の悪ガキか!:管理者)

その行動の裏には、男性の心の中で「早くコート脱いで、さっさと座れよ!」と思っているに違いないのです。
それを女性は「あんら、優しい人なのね…」と思ったとしたら、ちゃんちゃら可笑しいのです。

思いやりのある人だったらどうするかって?
同じ行動でも違いますよ。
彼女が遅れて来たら席を立って、あなたはまず彼女のコートを脱がそうとするのですが、脱がそうとしてはいけないのです。
わけのわからん文章ですが、つまり彼女だってコートを脱ぐにあたって都合があるに違いないのです、とまず思いやることなのです。

それは、あなたとのデートに遅れちゃいけないと思って、彼女は走ってきたかもしれません。そのためコートの下の服がぐちゃぐちゃになってるかもしれません。へたをすればブラジャーがずれているかもしれないのです。
(こら、どんな走り方をすればブラジャーがずれるんだよ?:管理者)

そこで、あなたはゆっくり後ろにまわってコートの両肩にやさしく手をおき、しばらくは動かさないことです。そのあいだに彼女は、ずれたブラジャーを直し、服をととのえるのです。
私のTマネージャーのように手慣れていれば、顔の化粧もその一瞬のうちにするかもしれません。
(そんなこと書いて、よく滝沢さんに叱られないね:管理者)
(名前を出すな名前を:筆者)

というのも、あなたが後ろに立ってコートに手を添えて動かさないでいるのを知っているから、それらの行動をあなたに見られずにゆっくりできるというわけです。
どうです。ここまで考えてあげるのが「思いやりのある男」の行動です。
一方の「優しい男」は相手の都合も考えず、コートをはぎ取ろうとするのです。そのことがジェントルマンだと思う女性がいたら、ちゃんちゃら――あ、これさっき使った――ほんとに可笑しいのです。

さてこれをマジックに当てはめてみましょう。

実はマジックの場合は「思いやり」を装った「優しさ」が必要なのです。なんといっても「優しさ」は自分のためですからね。

えー?何言ってんの?と思った人もいることでしょう。

つまり相手をおもんばかるように見える行動は、実は自分のマジックの成功のための行動なのです。
お客さんを舞台にあげた時、イスに座らせることがありますが、それはあっちこっち動き回ってネタを詮索させないためで、決して、思いやりではないのです。

また舞台にあげた女性にトランプを切らせるなら、イスに座らせテーブルの上で切らせるでしょう。
それは、彼女が手をすべらせてトランプが舞台上に散らばるのがマジシャンにとって怖いからです。
(そういえば、私をお客として舞台にあげたことはないわね:管理者)
(あったり前じゃん、何されるかわからんし、思いやりないし:筆者)
(ぶっ殺す!:管理者)

ギロチンで首を入れた後、両手をハンドルに持たせるのは、お客さんの体が安定して、楽だからという思いやりではないのです。
実は、そうしないとマジシャンにとって危ないからです。首は切れませんが、刃がお客さんの手に触れたら切れる可能性があるからです。そうするってーと訴訟問題になってしまいます。
(あのマジック、手は切れるんかい!:管理者)
(うーん、たまに…:筆者)

このように舞台での思いやりは、実は自分かわいさのためとおわかりでしょう。

だからこそ私は、実生活では思いやりのある行動をとっているのです。
では早速、これから夜の街に思いやり行動の実践をしてきまーす!
(ふん、どんな思いやりだか見てみたいもんだね。まったく:管理者)

写真は車庫のシャッターに思いやりのある「猫よけボトル群」



NO:29 靴を脱ぐ人々                          2005/6/2
みなさん、お久しぶり!
そして美人管理者は健在かあ???

(健在かあ?じゃねーよ。更新しない間に年取っちゃったよ!:管理者)

(あらら、久しくお会いしてないから、そんなババアになってしまったのかい?:筆者)

(ぶっ殺す!:管理者)


さて、以前テレビの報道番組で、靴を脱ぐスタイルの居酒屋で靴下を半脱ぎしているサラリーマンがいっぱいいると、放送していた。

全部脱ぐにははばかれるからだろうが、本当は脱ぎたいに違いない。

(弊社の社長は完全に靴下脱ぎます。クールビズ実践してます:管理者)

(それはクールビズとはいわんだろが:筆者)

(最初は驚いたけど、今は慣れたなー:管理者)

(慣れたんかい。あんたがオヤジ化したんじゃないのか?:筆者)

(うーん、そうかも:管理者)

(おいおい、いいのかよ:筆者)



確かに日本人にとって靴や靴下文化は明治からだが、遙か時間がたっているにもかかわらず、いまだなじまない。

大人の男が「素足になりたい」という気持ちは、若い娘が両手を胸に組んで眼を輝かせながら「…素直な女の子になりたい」というよりはるかに説得力がある。

ビリージョエルだって歌を作ったじゃないか。

「素足のままで」

(素股のままで、ではない:筆者)

(しばらく時間があいた間に下品になったな。<素顔のままで>じゃ:管理者) 


とにかく、日本人にはそういう遺伝子が連綿とつながっているのだ。

ではアメリカ人やイギリス人は、靴下までとはいかなくても、靴を脱ぐのが快適ではないのだろうか?

確かに彼らはオフィスでひとりなら靴のままデスクに脚を乗せていることがあっても、靴は履いている。

脚を上に上げた方が血行の流れからすれば、いいのかもしれないが、靴を脱いだ方がもっと効果的だろう。

ではなぜ靴を脱がないのだろう。

やはりそれは裸足民族(そんな言葉があるかは知らんが)と靴民族との違いかもしれない。

言い換えれば<靴の文化>か<下駄や草履の文化>かの違いといってもいいだろうね。

と同時にエチケットということに関するものなのかもしれない。外国では人前で靴を脱ぐことは失礼にあたるものなのかもしれませんね。

あの<ローマの休日>の王女様でもロングドレスの中で退屈な
儀式の時はヒールを人に見られないように脱いでいたもんね。


とにかく、日本人は靴もさることながら本当は裸足になりたいのだ。

日本人が裸足でいるのは、不自然ではない。
とくに着物なんぞ着ていればまったく理にかなっている。

それに日本では露天風呂でも裸足だし、プールでもそうだ。

(あたりまえじゃ:管理者)

しかし外国へいく飛行機の中では、あちらの方も靴を脱いでいるのをみかけるが、スリッパのある航空会社は別にしてそのまま靴下のままで過ごしている。

靴下を脱ぐというのは下着を脱ぐと同じ感覚なんだろうと思う。だから外国人は靴は脱いでも靴下は脱がないのだ。

しかし靴を脱ぐだけだとしても、隣の席に他人が居る場合はどうだろう。

以前アメリカで飛行機の3人掛けの椅子の真ん中に座ったことがある。両サイドは外国の人だが、彼らは靴を脱がなかった。

もちろん私もだが。
やはり、エチケットとして脱ぐことはしないのだ。


しかし先日乗った国内線の飛行機で、隣の歳とったサラリーマン風の男性には参った。
すぐさま靴を脱ぎ、脚を組んだのだ。

なんとその靴下は、吉本新喜劇ではない
『ごめんくさい! くっさー、こらまったくっさー』状態だったのだ。

うーん、自分では分からないのだろうな。
 
(ゲーー!最悪。私が隣だったら殺すかも:管理者) 

飛行機に乗った瞬間に脱いだのだが、これでははっきりいって離陸時の緊急事態に対処できない。
靴を履かずに逃げ出すことになるから、大けがをするに違いない。ざまあみろだ。

大昔の日本ならお互い様だから裸足でもいいだろうが、西欧文化を受け入れてしまった今の日本にはそれは通用しないだろう。


新幹線でも靴を脱ぐ人がいる。
確かに私も隣に他人がいなければ靴を脱ぐことがある。
しかし、誰かがいたら脱ぐことはしない。

すこし我慢すればいいのだし、そのほうが格好いいに決まっているのだ。

自分さえ気持ちよければいいというのは、パブリックの場所では遠慮するのが常識だし、その方がおしゃれな生き方だろうね。

(セックスのとき、自分さえ気持ちよければいいと自分勝手に空を飛ぶのはいいよね?私はいつもそうよ。って、これはパブリックではなかった…:管理者)

(あんたのが下品になってるジャン!:筆者)


靴を脱ぐということが気持ちいいのは確かだから、女性でもそうであろう。しかしストッキングはどうなんだろうか?

残念ながら女装はしたことがないのでわからない。

暑苦しいのかそれともなんとも感じないのか、誰か教えてくださいよ。

(ストッキングなんてここ何年もはいてないよー。私は息苦しいと感じるな。ボナの女装も興味があるのでぜひストッキングプレゼントします♪:管理者) 

(あほか!:筆者)

新幹線や飛行機でハイヒールを脱ぎ、ストッキングまで脱いだ女性を見たことがないな。

女性の場合、その方が気持ちいいなら、そうしてください。私も楽しめますから。。。。。

あ、ハイヒール脱いで正座する女性もいますよね。
まだその方がにおいがでないかもね。
(といっても美貌と年齢制限あり。あ、セクハラかな:筆者)

(こほん、私は美貌でカバーしてるからいいけど、今年から私は四捨五入で年齢をさばよむのではなく、マージャンと一緒で五捨六入にしてます。だから、まだ、年齢制限は大丈夫かも:管理者)


確かに窮靴(当て字)ではあるが、やはり一般のところでは脱がない方がいいね。

うちの美人マネージャーってこういうの怒るんだよね。

(あ、怖そう……。でもあのレディはいつもちゃんとしてるもんね:筆者) 



裸足といえば「玄人裸足」と言う言葉もある。
この言葉は素人(しろうと)なのに、本職が恥ずかしくなるほど技芸や学問などにすぐれていること、という意味。

つまり、あのラスベガスのスター、ランスバートンでも、私のゾンビボールの演技がうまいので、靴を脱いで靴下もぬいで恐れ入りましたと逃げてしまうということだ。

(あ、私は素人じゃなかった:筆者)

(うーん、酔っ払ったときのあなたのマジックは素人よりも下手です:管理者)

例えが違うな、うーん、こういうのはどうだろう。この美人管理者が脱いだら、みんな裸足で逃げるということと同義語だというのは。

(ほぉ〜、しばらく会わないうちに命知らずになったね。今度会うのが楽しみだ:管理者)

いや、コレも違うな。意味がわからなくなったけど、とにかくそういうことだよ。

(なんじゃそりあ!:管理者)

ま、私の言いたいことは自分さえよければいいは、大人のおしゃれでダンディな世界では通用しないからね、といいたいのだよ。

裸足に靴はいてた俳優がいたけど、どうみたっておしゃれには見えないんだよなあ…。

で、偉そうなことを言っているお前は今、どうしてるかって?

そりゃあ、畳でパソコン打っているけど、おしゃれなマジシャンの私は、ちゃんとシルクのナイトガウン着て、ブランデーグラスを片手に、靴履いて、この原稿書いてますよ。




写真はシド・チャリスのふるーい映画「絹の靴下」から。(C)Warner Home video

ソ連の女スパイ・ニノチカが西側の文化に触れ、古いストッキングを脱ぎ、裸足になり絹の下着を身につけるシーン。

うーん、たまらんなあ。。。。この場面。鏡で後ろ姿も見える…

(一生、見てろ!:管理者)